すきだらけ

黒板の上、文字になっていく白線。
こつ、こっ、ここ、こつ。
退屈ってものを形成するものの一つでしかなかった音すらも、あの手が奏でると、驚く程に心地良い。
チョークの粉に汚れたあの指先が、どんなに温かいか、おれは知ってる。
眼鏡の向こうで冷たく見える瞳が、野生めいた光を秘めた時の色も知ってる。
怖いくらい真剣なそれが、どんなに優しく細められるかも。
それから流暢に、行った事のない、これから行くかどうかも知らない異国の言葉を発するあの唇の柔らかさと、LがどうでRがどうだと器用なあの舌先の熱さ、それに

『ポートガス』

いっそ厭味な程に耳触りの良いあの声は、そう、たまにそうして、わざと焦れる呼び方をする。
応えるみたいにこっちが『せんせい』と言ってやったら、正しい関係を演じるみたいなそれを仕掛けてきたのは向こうの癖に、どこか辛そうに、でも堪らなく欲情したような目で、止めろ、と囁かれる。
身勝手な大人が愛しくてどうしようもなくて、おれはぐずぐずに溶けた恥ずかしい声で呼ぶ。
2人の時にしか見せられない素直さで、マルコ、マルコ。と。
だというのに

「ポートガス」

もう一度繰り返されたそれに、焦れる。
嫌だ、それじゃない。

「おい、ポートガス」
「…れ、やだ…、マルコッ」


スパーーン!!


不意に、一瞬にして甘い空気を吹き飛ばす衝撃。頭が痺れる。
足場が不意に崩れたみたいな感覚がして、がくんとやたら大袈裟に肩が落ちた。

「……あれ」
「夢の中でも授業中とはご苦労な事だな、ポートガス」
「…へ」
「どうせならこっちで受けろよい。テストが悪夢にならねェようにな」

さっきの小気味良い音から、瞬間固まってしまっていたらしい空気が壊れ、ドッと湧いた笑いがおれを包んだ。
ぼんやりした頭で理解出来たのは、2人っきりのつもりだった、でも違った。それだけ。
すごく、残念だ、なんて思っていたら

「ったく、この馬鹿」

呆れたように呟いて、マルコは教壇へと踵を返した。
クラスメイト達の注目は、まだ一心におれに注がれている。
漸くちゃんと状況を掴んだら、遅れて、羞恥がやってきた。

「ンだよ、お前ら!見んなよ!授業中だぞ!」
「いやお前がそれ言う!?」

慌てて荒げた声に、隣の席の奴がテンションを被せてきて、再び笑いが沸き起こる。
それ以上はもう、うるせェよ、と零すだけにしたら、自然と波は鎮まる筈で、そうしたらまた淡々と穏やかな授業が始まる筈だ。
顔に集まった熱を逃がすみたいに溜め息を吐いたら少し落ち着いた。
でもそんな時に、静まりきらないざわめきから
「つーか驚いたな、マルコ先生があんな風に怒んの初めて見た」
「ああ、おれも寝ねェように気を付けよ…」
なんてコソコソ言い合う声が聞こえてしまって、今度は笑いがこみ上げて来る。

ちらりと視線を持ち上げたら、何事もなかったみたいに黒板に向かう、彼の背中。
でも、おれは知ってるんだ。
マルコは普段、あんな風に完全にこちらに背を向ける事は少ないってこと。
ポーカーフェイスの裏側で、どんなに焦っておれを叩いたんだろう。

恥ずかしくて、申し訳なくて、でも愛しくて、可笑しくて。
小さく、小さく呟く。

「ごめん、センセ」




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